忘れている

せっかく新しくブログ作ったのに書くことをすっかり忘れている。書くことがないわけではないつもりだが、こちらにまで気が向かない。PCの前に座らない日の方が多いので必然的に書くに至らない。
あまりきちんと書こうと思いすぎているのかもしれない。また何でも気が向いたら書くつもりのほうが良いかもしれない。どう使おうか、と毎度のことながら考えつつ、結局何も書けないという。うぅむ。

「ルーシー・リー」展 @国立新美術館

今週の初めに会期は終わってしまいましたが、終わる直前の先週半ばに行ってきました。評判が良いと聞いていたのですが…。

結局のところ、工芸品はガラスの向こうの白い空間にあるのでは意味がないということでしょうか。展示されたうつわたちは、うつわなのに、使用されることなく死んだ状態にされているというか。遠目から見て、あれは良さそうだ、と思い近づいてみると魅力がなくなってしまったり。ルーシー・リーという人を私はよく知らないのですが、彼女は使用のためのうつわを作っていたのか、鑑賞のためのうつわをつくっていたのか、まったくわからなくなる展示方法でした。たとえすべては無理でも、一箇所でも、ランチョンマットやコースターの上に展示するとか、実際の生活の中で使うとしたらどのような景色になっただろうかという考察のきっかけになるような展示をして欲しかったと思います。そうではなく、ただ白い背景の展示ケースの中に陳列されていたのでは、その作品がどういった意味で評価に値するのかがまったくわからないなと感じました。結局のところ、展示を通して思ったのは、まるでルーシー・リーという女性の遺品展のようだ、ということでした。
また、最後の展示室を出てすぐのところにミュージアムショップが設けられていたのですが、そこで唐突にランチョンマットやコースター、作品の原寸大のレプリカ(実用向けに模して作られたもの)などが販売されており、これはちょっと…、とあまりのことに閉口してしまいました。そこでランチョンマットなどを売りたいのであればなおさら展示の中で多少なりとも使っているべきだろうし、ルーシー・リーの作品を模したものをそこで売るというのはあまりにも品がないというか、ちょっとひどすぎる、と。

それに展示以前の問題として、彼女の作品はまだあのような形で美術館に展示されるべきものではないのではないか、という疑問が浮かびました。当然、作品を保護する、という意味では必要かもしれませんが、恭しく「美術品」としてしまうにはまだそれほど時間が経っていなさ過ぎると思うのです。デパートの食器売り場や美術画廊ではいま活躍している作家の作品を展示・販売していますが、そういった現在活躍している作家の作品と彼女の作品は同じ文脈で比べることができてしまうほど時間に隔たりがないのです。いやもしかしたら、彼女の作品は手にとってみることができれば現在の作家達とは明らかに違う何かがあるのかもしれません。ですが、それを感じる以前に美術館の展示ケースの中に押し込めてしまったのでは他との比較をする余地もなく、「これが美術品です」というある種のレッテルを貼られた状態でしか見られないのであれば作品を評価することもできません。
そう、彼女の作品はデパートなどの美術画廊で展示されている方が似合うように思えて仕方がありませんでした。作品保護、という観点ではそれはふさわしくないのでしょうが。

もう既に

三日坊主というやつになっている。書こうと思うことがない。それほど疲れていたりなんか妙な状態になってしまっていたりしていた。
梅雨入りをしたそうだ、という内容を書いた人はどれほどいただろうと思ったけどさらにそう思った人はどれほどいただろう。というループ。
話題は天気と食べ物にしておきなさい、と昔映画で学んだのを思い出す。

酒を担いで

電車に乗っている。明日の発表の準備は終わっていない。旨そうな酒である。なんといっても龍神の特別仕様である。飲まないとか、ないよねー?とゆー感じ。しかしお腹がすいた。米の汁で腹を満たすのは危険なのでその前に何か食べなくては。